【特集】横井軍平とは何者だったのか?── 任天堂を変えた天才発明家の思想・功績・代表作を徹底解説

この記事は約17分で読めます。

横井軍平 – 任天堂の伝説的発明家、その哲学と功績

横井軍平さん

任天堂のゲームを遊んだことがある人なら、「ゲーム&ウオッチ」や「ゲームボーイ」という名前を一度は耳にしたことがあるだろう。これらの携帯ゲーム機を生み出し、任天堂を世界的企業へと導いた立役者の一人が横井 軍平(よこい ぐんぺい)氏である。横井さんはユニークなおもちゃやゲームの数々を開発し、その貢献の大きさから「ゲームの父」あるいは「携帯ゲームの父」とも呼ばれる人物。

本記事では、横井軍平さんの人となりや経歴、任天堂での功績と代表作(ウルトラハンド、ラブテスター、ゲーム&ウオッチ、ゲームボーイなど)の開発エピソード、「枯れた技術の水平思考」という名言に込められた哲学、そして退社後の活動や現代ゲーム業界への影響について、カジュアルな文体でわかりやすく解説して行く。

コウ
コウ

ちなみに筆者はブログのためにゲームボーイの調査を開始するまで、恥ずかしながら横井さんの存在を知りませんでした。しかし、それがきっかけで興味を持ち、関連本を買ってしまうほど偉大な人だった。

スポンサーリンク

横井軍平の人物像と開発哲学

遊び心あふれる発想家・横井軍平の人となり

横井軍平さんは一言でいえば遊び心あふれる発明家だった。

1941年に京都市で生まれ、同志社大学工学部を卒業後の1965年、就職試験の不合格が続いたこともあり「近所にあって採用してくれたから」という理由で任天堂に入社。

入社当時の任天堂は花札やトランプを作る京都の小さなメーカーで、横井さんは任天堂初の工学部卒社員だったと言われる。配属は開発職ではなく電気設備の保守点検係だった。

しかし、横井さんの好奇心旺盛な性格はすぐに伝説的なエピソードを生む。

勤務中の暇つぶしに、格子状に伸び縮みするおもちゃを自作して遊んでいたところ、当時の山内溥社長に見つかってしまう。怒られるかと思いきや、山内社長の口から出たのは「それをゲームにして商品化しろ」というひと言。

ウルトラハンド(1966)

こうして改良されたおもちゃは1966年に ウルトラハンド として商品化され、大ヒット。ウルトラハンドは物を掴めるハサミ型の伸縮アーム玩具で、発売するとコピー商品が出回るほどの人気を博した

このウルトラハンドの成功をきっかけに、任天堂社内には横井さんを中心とした「開発課」が新設される。当初は横井さんと経理担当者の二名だけという小さな部署でだったが、ヒット作の増加とともに人員も拡大して行った。

横井さんは次々とユニークなおもちゃを考案し、テレビや新聞でも話題になるヒット作を連発して行く。

ラブテスター(1969)

横井さんのユーモア溢れる発想を象徴するエピソードとして、1969年発売の ラブテスター の開発動機が挙げられる。ラブテスターは男女が手をつないで愛情度を測定する玩具だが、そのアイデアの裏には「女性と気兼ねなく手を繋げるための口実が欲しかった」という横井さんらしい遊び心があった。

仕組み自体は嘘発見器の簡易応用というシンプルなものだったが、発想次第でロマンチックなおもちゃになる好例である。

また横井さんは、肩書や立場にとらわれないフラットな人間関係を大事にする一面もあった。社内では管理職であっても平社員であっても「同じ会社で働く仲間」として対等に接し、部署の垣根を越えた人材活用にも積極的だったと言われる。

実際、後述するように横井さんは若手デザイナーだった宮本茂さんをゲーム開発者に抜擢し、『ドンキーコング』の大ヒットにつなげるなど、人を見る目と後進への影響力も持ち合わせていた。

さらには、人情味あふれるエピソードも数多く伝わっている。例えば、ある小学生の男の子が交通事故でゲームボーイを壊してしまった際、任天堂に修理を依頼すると新品の本体とともに「○○君、車には気をつけてね 横井」と直々にサイン入りの手紙が届いたという逸話がある。

また、片手が不自由な子供のために十字ボタンとABボタンを左右逆に配置した特別なゲームボーイを内緒で改造し、無償でプレゼントしたこともあったそうだ。こうした温かなエピソードからは、遊びを愛し人を思いやる横井さんの人柄がにじみ出て来る。

コウ
コウ

筆者の母親が「マジカルハンド」を持っていたらしい。子供が直感的に楽しめるアイデア商品だと思う。

名言「枯れた技術の水平思考」に込められた意味

横井軍平さんを語る上で欠かせないのが、彼の開発哲学を象徴する名言「枯れた技術の水平思考」。一見難しそうな言葉だが、横井さん本人はこれを平易に「新しいもの好きが最新技術を使って新製品を作るなら、ひねくれ者の自分は使い古された技術を組み合わせて新しい遊びを作る」という意味だと語っている(意訳)。

実際、横井さんは最新のハイテクよりも枯れた(成熟した)ローテクを好んで活用した。

枯れた技術」とは「すでに広く使われ、メリット・デメリットが出尽くした安定した技術」のこと。そして「水平思考」は固定観念にとらわれず新しい角度から物事を見る発想法を指した(エドワード・デボノの提唱する思考法が元になっています)。

つまり横井さんの哲学は、「ありふれた安価な技術を別の用途に組み合わせ、これまでにない商品や遊びを生み出す」ことにあった。このアプローチなら開発コストも抑えられるため、一石二鳥である。

実際、横井さんの発明品にはこの哲学が色濃く反映されている。例として、射的玩具の「光線銃SP」では太陽電池を光センサーとして利用し、光源には豆電球という既存技術の組み合わせで新奇なおもちゃを作り上げた。

また、後述するゲームボーイはまさに枯れた技術×新アイデアの傑作だった。ゲームボーイは発売当時すでに枯れた8ビット技術とモノクロ液晶を採用する代わりに、電池持ちの良さや低価格、小型さを実現した。その結果、カラー液晶や高性能CPUを搭載した競合機セガの「ゲームギア」やAtariの「リンクス」に圧倒的な勝利を収めている。

横井さん自身、「ハイテクが必要なわけではない。高価なハイテクは商品開発の邪魔になる」と語り、当時激化していた家庭用ゲーム機のスペック競争に苦言を呈していた。

1990年代中盤、各社が次世代3D機を競い合う中、任天堂も性能重視の『NINTENDO64』開発に踏み切る。その際、横井さんは64のプロジェクトを推進する宮本茂さんに「お前もそっち(ハイテク競争)の道へ行くのか」と漏らしたと伝えられている。

皮肉にも横井さん退社後、NINTENDO64は開発の難しさから国内では苦戦し、一方でCPU競争に乗らなかったゲームボーイが『ポケットモンスター赤・緑』の大ヒットで復権するなど、横井さんの先見の明を裏付ける結果となった。

このように、横井軍平の哲学「枯れた技術の水平思考」は「最新技術ありきではなく、発想次第で古い技術からでも新しい遊びが生み出せる」という信念だった。そしてそれは「高性能競争よりアイデア勝負を」というメッセージでもある。

横井さんの開発姿勢は、後の任天堂が独創的なゲーム体験(タッチパネルや体感操作)で成功を収める礎にもなった。枯れた技術に新たな命を吹き込む横井さんの哲学は、現在のゲームクリエイターたちにも受け継がれている。

スポンサーリンク

任天堂時代の軌跡と代表作

横井軍平さんの任天堂でのキャリアは30年以上に及び、その間に数々の名作玩具やゲーム機を世に送り出した。ここでは年代ごとに横井さんの代表的な仕事と開発エピソードを振り返る。

入社からウルトラハンドの大ヒット(1960年代)

1965年に任天堂へ入社した横井さんは、前述のようにウルトラハンドの大ヒットで一躍社内の注目を集めた。改良を重ねて完成したウルトラハンドは1966年に600円で発売され、予想を超える売上を記録する。子どもでも遠くの物を掴めるというユニークさで大人気となり、一時はコピー商品が出回る社会現象になるほどだった。

商品名の「ウルトラハンド」は当時流行していた体操技「ウルトラC」から取られたとも言われる。ウルトラハンドの成功により、横井さんは正式に新設の開発課でおもちゃ開発を任されることになった。

開発課では、横井さんが次々とユニークなアイデア玩具を世に送り出す。

たとえば1968年発売の家庭用ピッチングマシン ウルトラマシン、1969年発売の男女の愛情度測定器 ラブテスター、1970年代前半には光線銃を使った射的玩具 光線銃シリーズ など、いずれもテレビや雑誌で取り上げられる話題作ばかりだった。特に光線銃シリーズは大ヒットとなり、任天堂の名を玩具業界に轟かせた。

しかし、ヒットの陰で苦い経験もあった。光線銃シリーズの成功に乗じて、山内社長が大型レジャー施設向けの射撃システム レーザークレー の開発に乗り出したものの、1973年の第一次オイルショックの煽りを受けて計画が次々キャンセルされ、任天堂は大赤字を抱える事態となってしまう。

レーザークレーの商業的失敗は横井さんの責任ではなかったものの、会社にとって大きな痛手となりました。この経験から任天堂は大型投資を伴う事業を見直し、横井さんも再び手堅い玩具開発に注力することになる。

1970年代後半には、また新たなユニーク玩具が生まれた。掃除機にゲーム性を持たせた子供向けお掃除玩具「チリトリー」や、ルービックキューブに触発されて作られた立体パズル「テンビリオン」(1980年発売)など、発想勝負のおもちゃを次々と開発している。

テンビリオン(TEN BILLION)は球体の中で玉を転がす知恵の輪パズルで、100億通りとも言われる組み合わせから名付けられた意欲作だった。

ゲーム&ウオッチで携帯ゲームに挑戦(1980年代初頭)

1978年、任天堂の開発課は組織改編され、横井さんは開発第一部の部長に就任する。開発第一部は主に携帯型ゲーム機(ハード)と携帯ゲームソフトの開発を担う部署となり、横井さんは1996年に退社するまでそのトップとして君臨した。

この頃から横井さん自身はアイデアマンに徹し、技術面の実装は部下のエンジニアに任せるスタイルへとシフトしていく。コンピューターが苦手だった横井さんは、「技術者として上村雅之(ファミコン開発者)とは道が分かれていった」と評されるほど、独自のローテク路線を歩んで行った。

開発第一部時代の最初の大ヒットが、1980年から展開された携帯電子ゲーム機 ゲーム&ウオッチ シリーズ。ゲーム&ウオッチは液晶画面と時計を組み合わせた片手サイズの電子ゲーム機で、手軽にゲームが遊べることから世界的な人気商品となった。

横井さんはゲーム&ウオッチにおいて、十字ボタン(十字キー)を初めて考案したことでも知られる。十字キーは上下左右の方向を直感的に操作できる画期的な入力デバイスで、以降の任天堂製ハードはもちろん業界全体で標準搭載されるようになった。

今日プレイステーションやスマートフォンのバーチャルパッドに至るまで、ゲームの操作系に十字キーの概念が受け継がれているのは、横井さんの発明のおかげと言っても過言ではない。

ゲーム&ウオッチシリーズは、「ボール」「ジャッジ」などの単一ゲーム機から始まり、「パラシュート」や「オクトパス」など次々と新作が投入された。折りたたみ式2画面の「ドンキーコング」版(1982年)では横井さんの十字キーと合わせ、後のニンテンドーDSにも通じるデュアルスクリーンの元祖ともなった。

ゲーム&ウオッチの全世界累計出荷台数は4,000万台以上とも言われ、大ヒットシリーズとなった。

ゲームボーイの誕生と世界的成功(1980年代後半)

1989年、横井さん率いる開発第一部は携帯ゲーム機の集大成ともいえる 『ゲームボーイ』 を発売。ゲームボーイはモノクロ液晶に8ビットという当時としては枯れた技術のハードだったが、手頃な価格と携帯性、そして何より「テトリス」を同梱した戦略で爆発的ヒットを記録する。発売からわずか数年で全世界1億台以上を販売し、一躍任天堂を携帯ゲーム機市場の王者に押し上げた。

ゲームボーイ開発の裏側にも横井さんの哲学が光っている。限られたコストの中で必要最低限の機能に絞り込む一方で、通信ケーブル」による本体同士の接続機能を密かに盛り込んでいた。

当初この通信端子は活用方法が明確ではなかったものの、「板にジャックを付けるだけでコストは約2円程度だから、とりあえず付けておけば何か面白いことに使えるかもしれない」という横井さんの発想で搭載された。

この2円の投資が後に大きな花を咲かせる。対戦型『テトリス』やデータ交換が肝となる『ポケットモンスター』シリーズの大ヒットによって、通信ケーブルを使った遊びがゲームボーイのキラー機能となり、以降の携帯ゲームでも通信対戦や交換要素が標準となった。

ゲームボーイは横井さんの「枯れた技術の水平思考」を体現した代表作であり、同時に据置機中心だったゲームの楽しみ方を携帯型へと大きくシフトさせた功績を持つ。

丈夫で電池長持ちのゲームボーイは子供たちのお出かけのお供となり、「どこでもゲームが遊べる」という新しい遊びの文化を築いた。後年カラー化や小型化(ゲームボーイポケット、ゲームボーイカラー)もされ、携帯ゲーム機市場における不動の地位を確立した。

コウ
コウ

筆者が生まれて一番最初に父親に買ってもらったハードが「ゲームボーイポケット」でした。ゲーム屋さんで買ってもらった時の光景は今でも忘れられない。

バーチャルボーイの挑戦と任天堂退社(1990年代)

1990年代半ば、横井さんは3D立体視という新たな技術にもチャレンジする。それが1995年発売の据置型ゲーム機 バーチャルボーイ だった。テーブル据え置き型の赤いゴーグルを覗き込んで遊ぶバーチャルボーイは世界初の立体視ゲーム機として注目を集める。

しかし、赤と黒のワイヤーフレーム表示や長時間プレイの困難さなどから商業的には失敗に終わってしまう。横井さんの信念で低コスト技術に拘った結果、大きな損失にはならなかったものの、任天堂の看板商品にはなり得なかった。

バーチャルボーイの不振の後、1996年8月に横井軍平さんはついに任天堂を退職する。退社の直接的な理由については諸説あるが、本人は以前より「50歳を過ぎたら好きなことをする」と周囲に語っており、退職は横井さん自身の意思による独立だったという。

しかし当時の報道では「バーチャルボーイの失敗の責任を取って辞任」といった憶測記事も流れたため、横井さんは反論として『文藝春秋』1996年11月号に「私はなぜ任天堂を辞めたか」を寄稿し、自ら真意を語った。真相は定かではないが、一部では山内社長との確執が退社の背景にあったとの証言も伝えられている。

いずれにせよ、横井軍平さんは任天堂在籍31年間で数々のヒット商品を生み出し、宮本茂さんと並ぶ開発の双璧として同社の黄金期を築き上げた。ウルトラハンドから始まる玩具のヒット、ゲーム&ウオッチでの携帯ゲーム開拓、ゲームボーイによる世界的成功と、挑戦と成功を重ねてきた横井さんだが、バーチャルボーイでは思うような結果を残せず、新たな道を歩む決断をした。

スポンサーリンク

退社後の挑戦と晩年

新会社「コトー」での新たなものづくり

任天堂を退社した横井軍平さんは、自身の思い描く商品開発に専念するため「株式会社コトー(Koto Laboratory)」を設立した。社名の「コトー」は「何か事(こと)を起こそう」という意味が込められているとも言われている。

コトーでは、横井さんらしい小型ゲームや玩具の企画開発が行われました。例えば携帯液晶ゲームの『くねっくねっちょ』という不思議な名前のミニゲームシリーズを企画したり、任天堂時代にはできなかったような自由な発想の商品作りに挑戦して行く。

特に大きなプロジェクトとして、バンダイが開発する新型携帯ゲーム機 ワンダースワン に横井さんはアドバイザーとして深く関わった。ワンダースワンは低価格・低消費電力を武器に、ゲームボーイに次ぐ携帯ゲーム機市場の一角を狙った製品である。横井さんの監修により、モノクロ液晶で電池長持ち、軽量コンパクトという設計がなされており、その思想にはやはり「枯れた技術の水平思考」が息づいていた。

ワンダースワン向けのパズルゲーム『GUNPEY(グンペイ)』も横井さんが自ら監修を務めたタイトル。GUNPEYは画面下から上がってくる断片線を入れ替えて一本の線をつなげる落ち物パズルで、横井さんの名前を冠した遺作的ゲームとなった。皮肉にも横井さんのご逝去後に発売された作品だが、シンプルながら中毒性の高いゲーム性で人気を博し、ワンダースワンを代表するヒットソフトの一つとなった。

突然の事故、そして伝説に

独立から約1年後の1997年10月4日、悲劇が訪れる。石川県内の北陸自動車道で知人の運転する車が追突事故を起こし、横井さんはその処理のため車外に出たところ、後続車に撥ねられてしまう。病院に搬送されたが外傷性ショックのため帰らぬ人となり、56歳という若さで急逝された。突然の訃報にゲーム業界は深い悲しみに包まれた。

横井軍平さんの死後、その功績を称える動きもあった。2003年にはゲーム開発者会議(GDC)の「生涯功労賞」が贈られ、横井さんがいかに世界のゲームクリエイターから尊敬されているかが示された。

また任天堂社内でも横井さんの開発哲学は語り継がれ、かつて上司だった山内溥氏も「横井君の遺志は我々が引き継ぐ」と述べたと伝えられる(※伝聞)。横井さんが残した数々の発明やアイデアは、今なお色褪せることなく人々の記憶に刻まれている。

奇しくも横井さんが生涯を閉じた1990年代末は、ゲーム業界が3Dポリゴン全盛へと大きく舵を切った時期だった。しかしその後、再び横井さんの「アイデア重視」の精神が見直される流れが訪れる。横井さん亡き後も、彼の意志は様々な形で次世代へと受け継がれていった。

スポンサーリンク

横井軍平がゲーム業界に遺したもの

任天堂への影響と「枯れた技術」の継承

横井軍平さんの開発哲学と仕事ぶりは、後年の任天堂の方向性にも大きな影響を与えた。事実、横井さん退社後の任天堂は一時期ハイエンド路線に傾いたが、2000年代に入ると再び「スペック競争からの決別」を掲げるようになる

据置機ではゲームキューブを経て、2006年に発売された Wii は高性能競争よりも体感コントローラによる新遊戯体験に重点を置き、大ヒットとなった。

また、2004年発売の携帯機 ニンテンドーDS では、二画面タッチパネルという従来にないインターフェースを搭載し、性能で勝るソニーのPSPに対して圧倒的な販売台数を記録している。任天堂の岩田聡社長(当時)は「DSやWiiの路線こそ枯れた技術の水平思考に則ったもの」だと述べ、横井軍平さんの哲学を引き継いでいることを明言した。

さらに横井さんが宮本茂さんをゲームクリエイターに推した逸話も、任天堂の人材活用の伝統として根付いている。宮本さん自身、「横井さんから学んだのは万人向けのゲームを作る姿勢だ」といった趣旨の発言をしており、マリオやゼルダで世界的人気クリエイターとなった宮本さんの根底にも横井イズムが流れていると言えるだろう。

横井さんのヨコイズム(横井流のアイデア主義)は、任天堂社内で脈々と受け継がれ、次世代のゲーム開発者たちに影響を与え続けている。

ゲーム文化への貢献とレガシー

横井軍平さんが残した功績は、任天堂という一企業の枠を超えて現代のゲーム文化全体に広がっている。とりわけ「携帯ゲーム機で遊ぶ」という文化を定着させた意義は計り知れない。

ゲーム&ウオッチやゲームボーイが登場する以前、テレビに繋ぐ据置型が主流だったゲームは、横井さんの発明によっていつでもどこでも遊べる娯楽へと変貌した。通学路でゲームボーイに熱中した世代は今や大人になり、自分の子供たちと携帯ゲームで遊ぶ時代である。

スマートフォンで手軽にゲームができる現代の状況も、裏を返せば横井さんが築いた「手のひらの中の遊び場」の延長線上にあると言えるだろう。

また横井さんのアイデア第一主義は、多くのゲームクリエイターに影響を与えました。最新技術や予算がなくても工夫次第で面白いゲームは作れるという横井さんの姿勢は、インディーゲーム開発者たちにも通じる精神。例えば小規模チームでも斬新な発想で勝負するインディー作品が次々ヒットしている現状は、横井イズムが受け継がれている証拠かもしれない。

横井軍平さん自身は表舞台に出ることは多くなかったが、その功績は各所で顕彰されている。前述のGDC特別功労賞の他にも、「ゲームボーイの父」として海外のゲームファンから敬意を込めて語られる存在でもある。

任天堂のゲームソフト内で横井さんにちなんだネーミングが登場することもある(例:ミスターヨコイというキャラクターや、ゲーム内アイテム「Ultra Hand」のオマージュなど)。2023年発売の『ゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム』では、主人公リンクが物をくっつけて運ぶ新能力の名前が「ウルトラハンド」と名付けられ、大きな話題となる。これは言うまでもなく、横井さんの発明した玩具ウルトラハンドへのリスペクトである。

横井軍平さんの人生は、自身の信じる「おもしろさ」を追求し続けた生涯でだった。古い技術に新しいアイデアを乗せ、人々に驚きと笑顔を届ける──その姿勢は、今もなお多くのクリエイターやファンに受け継がれている。もし街角で誰かが携帯ゲーム機に熱中しているのを見かけたら、その原点を作った横井軍平さんのことを少し思い出してみてください。きっと横井さんも天国でにっこり微笑みながら、新しい遊びを考えていることでしょう。

スポンサーリンク

おわりに

横井軍平さんは、平凡なおもちゃに魔法をかけてしまう天才だった。任天堂の一社員から始まり、「枯れた技術の水平思考」という独自の哲学で次々とヒット作を生み出した横井さん。

その軌跡を振り返ると、改めてアイデアの力の凄さに気付かされる。最先端の技術や派手なグラフィックがなくても、人々を夢中にさせる遊びは創れる――横井さんの姿勢は、現代のゲーム開発にも通じる普遍的な真理だろう。

ゲーム業界は日進月歩で技術革新が続いているが、横井さんが遺した「面白さの本質を追求する精神」は色褪せることがない。任天堂のみならず世界中のゲームクリエイターが横井軍平さんに倣い、遊び心と工夫で勝負する作品作りに挑んでいる。私たちプレイヤーも、ゲームボーイを初めて手に取ったときのようなワクワク感を、これからも味わい続けていけるだろう。

最後に、この記事を通じて横井軍平さんの人となりや功績に触れ、「こんな面白い人がいたんだ!」と感じていただけたなら幸いだ。レジェンドと呼ぶに相応しい横井軍平さんの物語は、これからも語り継がれ、新たな遊びの創造にインスピレーションを与え続けていくことだろう。

タイトルとURLをコピーしました