ケン・グリフィー・ジュニアは、1990年代から2000年代にかけてメジャーリーグを代表するスーパースターとして活躍した外野手。
美しいスイングから放たれる豪快なホームランと、センターで見せる華麗な守備を武器に多くのファンを魅了した。
シアトル・マリナーズの黄金期を支えた中心選手として知られ、通算630本塁打を記録。明るいキャラクターと圧倒的な実力を兼ね備え、「キッド」の愛称で親しまれた。
野球ファンからの人気は非常に高く、現在でもメジャーリーグ史上最高の選手の一人として語り継がれている。
2000年のケン・グリフィー・ジュニア
2000年はケン・グリフィー・ジュニア(愛称「ジュニア」)にとって大きな転機の年だった。
1999年オフに故郷への思いからシアトル・マリナーズへ移籍を直訴し、背番号24番のままではなく父ケン・グリフィー・シニアが使っていた「30」を背負ってシンシナティ・レッズに加入。
グリフィーはオーランド(フロリダ)在住で、近所に住んでいたゴルファーのペイン・スチュワートが1999年10月に飛行機事故で亡くなったことをきっかけに「家族ともっと近くにいたい」と考えるようになった。レッズへのトレードを希望し、2月10日に投手ブレット・トムコらとの交換で1対4のトレード移籍が成立した。
トレードが決まってから数時間後、レッズとの9年契約にサインしたグリフィーは記者会見で「やっと故郷へ帰れた」と話したという。当時レッズのGMだったジム・ボウデンはこの移籍を「野球界最大級のトレード」と呼び、グリフィーを“野球界のマイケル・ジョーダン”と評した。
グリフィーはマリナーズの8年1億3,500万ドル以上の契約を断り、レッズとは総額1億1,250万ドル(買い取りオプションを含めると1億1,650万ドル)の契約を結ぶ。彼は「金額より家族と故郷」が重要だったと語り、実際に半分以上の報酬を引退後に受け取る形で契約したという。

レッズでは父シニアが現役時代に付けていた背番号30番を着用した。シアトル時代の24番はレッズの英雄トニー・ペレスの永久欠番だったためでもある。
レッズ加入後初本塁打は4月9日のシカゴ・カブス戦だった。この試合でチームは6点を追う展開でしたが、6回にグリフィーがライトスタンド上部の「Junior’s Playpen(ジュニアの遊び場)」という看板付近へ放り込む2点本塁打を放つ。
この一発で観客は総立ちとなり、レッズは延長11回で逆転勝ち。この本塁打はグリフィーにとって通算399号で、翌日の400号へと繋がった。初本塁打が逆転勝利のきっかけとなったことも、「故郷にスターが帰ってきた」とファンが熱狂する材料になったという。
選手能力



こんにちは!今回はレッズ時代のグリフィーを作ってまいりました😳レッズ時代のグリフィーは一度パワプロ12決定版で作ったことがあるwwwwwww
当時のパワプロは特殊能力モリモリの選手を作るのが本当に難しくて、実際のグリフィーには程遠い出来だったけど…
それにしてもこの頃のグリフィーは「衰えた!」なんて海外メディアでも言われてたらしいんだけど、40本塁打118打点ですよ?!?!?笑
90年代後半のグリフィーが異次元だっただけで、この成績も超一流なのだが?!?!?!😂このレベルの成績を残せるさえも中々出て来んよ。
ただ、確かにこの年から徐々に怪我が増えて行って、成績も急降下していくんだよね。
実は2000年4月10日は父ケン・グリフィー・シニアの50歳の誕生日だったと言う。この日のコロラド・ロッキーズ戦でグリフィーは4回にソロ本塁打を放ち、通算400本塁打に到達。
30歳141日で400本塁打を達成した史上最年少記録となり 、この年からレッズのベンチコーチを務めていた父と抱き合ったというエピソードが残ってる。どんだけ奇跡を起こす親子なんや…って感じ。
パワナンバー

