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【特集】マリオの生みの親・宮本茂── 任天堂を変えたゲームの神様の人物像・代表作・哲学を徹底解説

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マリオの生みの親・宮本茂さん――任天堂レジェンドの人物像と功績

任天堂を代表するゲームクリエイター、宮本茂(みやもと しげる)さんは、『スーパーマリオ』『ゼルダの伝説』『ドンキーコング』など数多くの名作ゲームを世に送り出した人物である。

世界中のゲームファンから「現代ゲームの父」とも称される存在で、2019年にはゲーム関係者として初めて文化功労者にも選ばれている。また海外でも「宮本氏なくしては現代のゲーム業界を語ることはできない」と評価されるほどの影響力を持っている。

現在は任天堂株式会社の代表取締役フェロー(Creative Fellow)という肩書で、第一線で新たな遊びの創造に関わり続けている。

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第1章:宮本茂の歩み:任天堂で紡いだキャリア

幼少期から学生時代:創造力のルーツ

1950年代の京都(引用 https://kyotonikkatsu.web.fc2.com/kyoto/kyoto-movie50a.htm より)

宮本茂さんは1952年に京都府で生まれた。子どもの頃から漫画や自然の中での遊びが大好きで、中学時代は漫画クラブを立ち上げるほど熱中していたという。

高校では音楽にも興味を持ち、軽音楽クラブに出入りしてギターを習ったこともあった。金沢美術工芸大学では工業デザインを専攻し、その独創的な発想から教授に「アクセサリーデザイナーになってみてはどうか」と勧められたほどだったという。こうした幼少期・学生時代の経験が、後のゲーム作りの原点として宮本さんの創造力を育んで行った。

任天堂入社とゲームデザイナーデビュー

大学卒業後の1977年、宮本さんは任天堂に入社。当時任天堂はデザイナーの採用募集を行っていなかったが、宮本さんのお父様が任天堂社長の山内溥氏と知り合いだった縁もあり、特別に面接の機会を得た。

面接では象のイラストをあしらった木製ハンガーなど自作のおもちゃを持参してプレゼンテーションを行い、その「ものづくり」の才能が山内社長の目に留まって採用が決まったとされている。入社後しばらくは企画部で花札や玩具のデザイン、アーケードゲーム筐体の装飾などに携わり、地道に経験を積んで行った。

宮本さんの転機は1980年頃に訪れる。米国任天堂で余剰となっていたアーケードゲーム基板を再利用して新作ゲームを作ることになり、開発部長だった横井軍平さんから抜擢されてゲーム開発の中心メンバーに抜擢された。す

宮本さんにとって初めて本格的に手掛けたゲーム作品が、1981年発売のアーケードゲーム『ドンキーコング』だった。開発当初はアメコミの『ポパイ』を題材に企画していたが版権が取れず、急遽キャラクターを描き直してオリジナルストーリーを制作する。

ゴリラが暴れるビルの上を主人公がよじ登って恋人を救うという物語性のあるゲームは当時画期的で、完成した『ドンキーコング』は世界的な大ヒットを記録した。この作品で宮本さんはゲームデザイナーとして華々しいデビューを飾り、同時にこのゲームに登場した主人公「ジャンプマン」は後に“マリオ”と名付けられ任天堂の看板キャラクターへと成長して行く。

世界的大ヒットの連発、任天堂の顔に

ドンキーコング』の成功をきっかけに、宮本さんは任天堂内でゲーム開発の中心人物となっていく。

1985年にはファミコン用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を世に送り出し、マリオは一躍世界的な人気キャラクターとなった。翌1986年にはアクションRPGの先駆けとなる『ゼルダの伝説』を発売し、広大なフィールドを自由に冒険できるゲーム性で大ヒットさせた。以降も宮本さんはディレクターやプロデューサーとして、『MOTHER』『スターフォックス』『ヨッシー』『どうぶつの森』など次々と話題作を手掛けた。

ファミコンからスーパーファミコン、ニンテンドウ64とハードが進化する中で、『スーパーマリオ64』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』といった3Dゲームの金字塔も生み出し、そのたびにゲームの表現を押し広げて来た。宮本さんの関わったタイトルは文字通り任天堂の“顔”ばかりであり、世界中のプレイヤーに驚きと楽しさを届け続けてきた。

経営への参画と現在の役割

2000年代に入ると、宮本さんは開発現場だけでなく経営陣としても任天堂を支える立場になっていく。2000年に任天堂の取締役に就任し、2002年には代表取締役専務に昇格して経営にも深く関与するようになった。一方で「できる限り開発の現場に居るべき」という岩田聡社長(当時)の方針もあり、役員になってからも開発総責任者として現場を見守り続けた。

2006年の『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』開発時には自ら陣頭指揮を執り直し完成に導いたエピソードもある。2015年、長年率いた開発本部長のポストを後進に譲り、現在は「代表取締役フェロー」という創造フェロー職に就いている。

肩書きは変われど宮本さんの現場への情熱は衰えず、Nintendo Switch世代でも『スーパーマリオ オデッセイ』や『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の制作にアドバイザー的立場で関与し、テーマパーク「スーパー・ニンテンドー・ワールド」やハリウッド映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のプロデュースまで手掛けるなど、その活動は多岐に渡っている。まさに宮本茂さんは現在もゲーム業界をけん引する生けるレジェンドと言えるだろう。

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第2章:宮本茂が生み出した代表的なゲームたち

『ドンキーコング』:ストーリー性を持ち込んだ初ヒット作

宮本さんのデザイナーデビュー作となった『ドンキーコング』(1981年)は、アーケードゲームに初めて明確な「物語」を持ち込んだ作品として知られる。ゴリラにさらわれた女性を主人公が助けに行くという設定は、当初は『ポパイ』のキャラクターで企画されていたものの叶わず、宮本さん自らがオリジナルのキャラクターに描き替えて実現した。

完成したゲームはアクションゲームとして斬新なアイデアに富み、北米を中心に大ヒットを記録した。特に主人公のジャンプマン(後のマリオ)やゴリラのドンキーコングといったキャラクターの魅力が人気を呼び、任天堂はこの成功でアーケード業界に確固たる地位を築いた。

ちなみに主人公「マリオ」の名前は、当時任天堂がアメリカで借りていた倉庫のオーナーであるマリオ・セガール氏に由来して付けられたと言われている。小さな発想の転換と物語性が功を奏した『ドンキーコング』は、宮本さんのクリエイター人生のみならずゲーム史全体に残る金字塔となった。

『スーパーマリオ』シリーズ:世界で愛されるヒゲの配管工

宮本さんと言えば何と言ってもマリオです。1985年ファミリーコンピュータ向けに発売された『スーパーマリオブラザーズ』は、シンプルな操作で誰もが楽しめる横スクロールアクションゲームとして空前のヒットとなった。

マリオがレンガを割ったりキノコでパワーアップしたりする姿は子どもから大人まで夢中にさせ、マリオは任天堂のみならずゲーム業界の象徴的キャラクターに成長した。シリーズ累計売上本数は2020年時点で5億6千万本を超え、「史上最も売れたゲームシリーズ」としてギネス世界記録にも認定されている。

その後もマリオシリーズは進化を続け、『マリオカート』『マリオパーティ』『スーパーマリオ オデッセイ』など多彩な派生作品が登場し、いずれも高い人気を誇っている。派生キャラクターのルイージ、ピーチ姫、クッパなども愛され、マリオの仲間たち含めてファミリーで世界中のファンを魅了し続けている。

『ゼルダの伝説』シリーズ:冒険の驚きと探索の自由

アクションアドベンチャーの金字塔『ゼルダの伝説』シリーズも宮本さんの代表作である。初代『ゼルダの伝説』が発売された1986年当時、ゲーム内で広大な世界を自由に冒険できる作品は画期的だった。

宮本さん自身、「子どもの頃に地図も持たず山野を探検し、洞窟を見つけて入ってみたときのドキドキ」がゼルダの着想源になったと語っている。

プレイヤーは手探りで迷いながらも新しい発見を重ねることができ、その体験は宮本さんが幼少期に感じた冒険のワクワク感そのものだったのである。

シリーズを通して謎解き要素やアイテム収集など遊びの幅も広く、ファンタジー世界での「自分だけの冒険」が味わえるゲームデザインは世界中で高く評価されている。

中でも1998年発売の『時のオカリナ』は3Dアクションゲームの完成形として称賛され、宮本さん自身もより高い品質を求めて発売を何度も延期しクオリティアップに努めた逸話がある。近年の『ブレス オブ ザ ワイルド』ではオープンワールドの自由度を極限まで追求し、新たな伝説を打ち立てた。ゼルダシリーズはプレイヤーに「世界を探検する楽しさ」を存分に味わわせる、不朽の名作として君臨している。

『スターフォックス』:狐が導いた本格3Dシューティング

1993年に登場したスーパーファミコン用ソフト『スターフォックス』は、任天堂初の本格的3Dポリゴンゲームとして話題を呼んだ。宇宙を舞台に動物キャラクターたちが戦闘機に乗り込むシューティングゲームだが、このユニークな設定にも宮本さんらしい発想の背景がある。

開発当時、宮本さんは京都・伏見稲荷大社の千本鳥居を訪れた体験から「門(アーチ)の連続をくぐり抜けていく」アイデアを思いつき、それをゲームのコースに取り入れた。

さらに伏見稲荷といえば狐(キツネ)がお使いであることから主人公を狐にしようと発想し、「スター・フォックス(Star Fox」というタイトルが生まれた。こうして誕生したキツネのフォックス・マクラウド率いるチームは、仲間にタカやウサギ、カエルなど個性的なキャラクターが揃い、ゲーム中の会話デモによって物語性も表現された。

『スターフォックス』は当時としては高度な3D表現と爽快なシューティング体験でヒットし、64や最新ハードにもシリーズが続く人気タイトルとなっている。宮本さんの創造力が和のインスピレーションと最先端技術を結びつけた好例と言えるだろう。

『ピクミン』:ガーデニング趣味から生まれた小さな仲間たち

2001年、ニンテンドーゲームキューブ向けに発売された『ピクミン』は、宮本さんの「日常の趣味」がヒントになって生まれたユニークなゲーム。プレイヤーは未知の星に不時着した主人公となり、植物と動物が合わさったような不思議な生物「ピクミン」を指揮して星からの脱出を目指す。

この斬新なゲームデザインの背景には、宮本さんの自宅での庭いじりの経験がある。庭でアリの行列を観察したり植物を世話したりする中で得た着想が、『ピクミン』のゲーム内容に生かされた。実際、宮本さんは「庭を歩いていると足下にピクミンがいるような感覚になった」と語っており、現実とゲームの境界を越えて楽しめる作品に仕上がっている。

さらに宮本さんは、自分が犬を飼い始めた体験から子犬とのふれあいを描いた『nintendogs』を生み出したり、毎朝の体重測定が日課になったことから健康ゲーム『Wii Fit』の企画を思いついたりと、日常の趣味をゲーム化する名人でもある。

『ピクミン』はそうした宮本さんのクリエイターとしての遊び心が凝縮された作品であり、小さな生物たちと協力する新鮮なゲーム性は今なお多くのファンに愛されている。

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第3章:宮本茂のゲームデザイン哲学

遊びの本質を追求するオリジナリティ

宮本さんは常に「ゲームのおもしろさの本質とは何か」を追求し続けて来た。その姿勢は流行に流されない独創性に表れている。

1980年代後半のインタビューで「僕はトレンドの方を見ないようにしようとしているのです」と語り、世間の流行を追うのではなく「自分たちが本当に作りたいもの」に集中することが大切だと述べている。実際、任天堂社内でも「任天堂は流行と競争するのではなく、独自のモノを作る姿勢を持っている」と若手に語っており、他社や世間の真似ではなく自分たちのアイデアを貫く精神を強調している。

この考え方は、宮本さんが尊敬する先輩である横井軍平氏の哲学「枯れた技術の水平思考」(成熟した技術を組み合わせ新しい遊びを生む)にも通じており、最新技術よりもアイデア次第で面白さを創出する任天堂らしさの源泉となっている。

「誰もが楽しめる」ゲーム作り

宮本さんのゲーム哲学でもう一つ重要なのは、「プレイヤーの層を問わず誰もが楽しめるようにする」ことです。例えば、スマートフォン向けに開発された『スーパーマリオラン』について宮本さんは「初めて遊ぶ人から上級者まで広く楽しめるゲームができた」と述べており、初心者からコアゲーマーまで幅広いユーザーに配慮したデザインを心掛けている。

子どもでも大人でも直感的に操作でき、遊ぶ人を選ばない間口の広さこそ任天堂ゲームの魅力だという信念がある。これはハードやコントローラーがどんなに進化しても変わらない宮本さんの一貫した理念であり、「自分たちが作ったゲームでできるだけ多くの人に笑顔になってほしい」という思いが根底にあるのだろう。

体験で語りかけるゲームデザイン

宮本さんの作品は、ゲーム内での体験を通じてプレイヤーに語りかけるようなデザインが特徴。ゲーム開始直後のチュートリアルですら言葉より体験で学ばせる工夫が凝らされている。たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』の1-1面では、プレイヤーは右に進むと突然クリボー(敵)にぶつかりミスをする。

しかし、その失敗から「敵に当たるとダメなんだ」と直感的に理解でき、少し進めば「?ブロック」が現れてブロックを叩くとコインやパワーアップキノコが出ることに気付く。

キノコを取ればマリオが大きくなり強くなることも一目で分かるだろう。このように、ゲーム内で自然に発見と学習ができる設計によって、プレイヤーとゲームが対話しているかのような体験が生まれる。宮本さんは「プレイヤーに無駄な退屈を味あわせず、能動的に楽しんでもらうこと」を重視しており、言葉に頼らずとも遊びの中で伝えたいことが伝わるゲームデザインを追求している。

こうした手法は現在のゲーム開発でもお手本とされ、多くのクリエイターに影響を与えている。

“ちゃぶ台返し”に見る妥協なき姿勢

宮本さんの開発スタイルを語る上で有名なのが「ちゃぶ台返し」というエピソード。これは「開発途中のゲームが面白くないと判断した場合に、完成目前でも容赦なく企画を白紙に戻す」という大胆な方針を指す言葉で、2004年のゲーム開発者会議(GDC)で宮本さん本人が使った表現が由来。

任天堂の開発現場では「宮本チェック」「ミヤホンチェック」として恐れられたこともあり、一見こわもての伝説のようにも聞こえる。しかし宮本さん自身は「何でもかんでもひっくり返すわけじゃない」と説明している。

ちゃぶ台を返すような大きな方針転換をするときは、「ディレクターである自分が全体を見渡した上で『ここを変えればもっと良くなる』という確信がある場合」だと言う。逆に自分に明確なビジョンがないときには闇雲に反対せず、「それは単なるダメ出しであってちゃぶ台返しではない」とも語っている。

つまり、妥協なく面白さを追求するがゆえに全体像を掴んだ上で判断するのであって、無軌道に開発を振り回すわけではない。この姿勢のもと実際に『ゼルダの伝説 時のオカリナ』は品質向上のため発売を2年延期し、『メトロイドプライム』では視点を三人称から一人称に変更する大幅な路線変更を敢行した。

結果としてどちらも高い評価を得ており、宮本さんの妥協しない目利きが作品を磨き上げた好例と言える。ちゃぶ台返しは宮本さんの厳しさを表す逸話として語られますが、その根底には「本当に面白いものを届けたい」という開発者魂が感じられる。

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第4章:仲間たちとのエピソードと影響

師匠・横井軍平との出会い

横井軍平さん

宮本さんのキャリアに欠かせない人物の一人が、先輩であり恩師でもある横井軍平さんです。横井さんはゲーム&ウオッチゲームボーイを生み出した任天堂のレジェンドで、宮本さんが入社した頃は開発部長を務めていた。

前述の通り、1981年に『ドンキーコング』の企画で宮本さんを大抜擢したのが横井さんであり、以降宮本さんはたびたび横井さんとコンビを組んで開発を行っている。宮本さんは「横井は自分の師匠だと思っている」と公言しており、横井さんから様々な考え方やモノづくりの姿勢を学んだと語っている。

たとえば横井さん提唱の「枯れた技術の水平思考」という考えは宮本さんにも受け継がれ、最新技術よりもアイデアと工夫で勝負する任天堂流の開発哲学として今も息付いている。また横井さんは遊び心あふれるガジェット開発で知られた人物だが、宮本さんもそうした先輩の背中を見てユニークな発想を何より大切にするクリエイターへと成長して行った。

残念ながら横井さんは1997年に退社されその後急逝されたが、宮本さんは今でも「横井さんならどう考えるか」を胸にゲーム作りに向き合っているのではないだろうか。

盟友・岩田聡との絆

岩田聡さん

任天堂元社長の岩田聡さんと宮本さんの関係も、ゲーム業界では有名なエピソードである。岩田さんは天才プログラマー出身の経営者で、宮本さんとは年齢こそ離れていましたが公私にわたり非常に仲が良かったと言う。

宮本さん自身、「岩田さんとは上司と部下ではなく友だちだった」と語っており、プライベートで会ってもゲームや会社の話でおしゃべりが止まらなかったという。

2002年に岩田さんが社長に就任して以降は、宮本さんは開発トップとして岩田社長を支え二人三脚で任天堂を盛り立てた。

そんな盟友の岩田さんが2015年に亡くなった際、宮本さんは深い悲しみに暮れながらも「岩田さんが残してくれた仕組みと言葉のおかげで若手たちが生き生きとやっている。会社はちゃんと回っています」とコメントしている。

そして「困ったのは、僕が週末に思いついたしょうもないことを月曜日に聞いてくれる人がいなくなったことですね」と冗談めかして寂しさを滲ませた。いつも新奇なアイデアを思いついては岩田さんに聞いてもらっていた宮本さんらしいエピソードだが、そこには二人の信頼関係と友情が表れていて胸が熱くなる。

岩田さん亡き後も宮本さんは「自分にできることは何か」を考え続け、盟友の意思を継いで任天堂の舵取りに尽力しています。

若手クリエイターへの影響と育成

宮本さんは近年、自ら第一線に立つだけでなく若手クリエイターの育成にも力を注いでいる。任天堂では新しい世代の開発者が台頭し、『スプラトゥーン』やNintendo Switchの独創的なタイトルも若手中心で生まれている。

宮本さんはそうした若手とベテランの協働について「ゲームの骨組み(遊び方の根幹)とデコレーション(見た目など表現)のデザインがあるが、表現部分は若い人にどんどん任せればいい。ただし骨組みまで全て若手だけでやると流行りものになりがちなので、任天堂らしい芯の部分はベテランがしっかり抑える必要がある」と語っている。

実際、任天堂社内ではノウハウの継承がうまくいっており、若手の自由な発想とベテランの独創性が融合する体制が築かれているようだ。またゼルダシリーズの後継ディレクターである青沼英二さんは「完成したタイトルを宮本さんに見せると、予想もしないフィードバックをくれる。それがすごく楽しくて、新しい視点が生まれる」と述べており、宮本さんと仕事をすること自体が若手にとって大きな学びになっている。

宮本さんは若手に対して自身のやり方を押し付けるのではなく、「あなたが考えたものをちゃんと形にして伝えていくのが大事」と励ましており、伝統をただ守るのではなく新しい娯楽を創造する任天堂の理念を次世代に伝えている。

このように宮本さんは未来のクリエイターたちに多大な影響を与えつつ、任天堂らしいものづくりのDNAを受け継がせている。

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第5章:世界のゲーム業界に与えた影響と海外での評価

宮本茂さんがゲーム業界に与えた影響は計り知れない。その革新的なゲームデザイン哲学は国内外の多くの開発者にとって教科書であり、宮本さんを「尊敬するゲームクリエイター」として名前を挙げる業界人は後を絶たない

しばしば「ゲーム界のウォルト・ディズニー」とも評されるように、キャラクターと遊びの魔法で世界中の人々を魅了してきた功績は突出している。

事実、宮本さんはその長年の功績により国内外で数々の賞を受賞している。1998年にはアメリカのAIAS(デジタルゲーム協会)によるInteractive Achievement Awards「殿堂賞」の第1回受賞者となり 、2010年には英国アカデミー賞(BAFTA)でフェローシップ賞をアジア人として初めて受賞した。

BAFTA授賞式では「宮本氏を抜きにしては現代のゲーム業界を語ることはできない」とその功績が称えられている。

2012年にはスペインのアストゥリアス皇太子賞(現・プリンセサ・デ・アストゥリアス賞)をコミュニケーション部門で受賞し、ゲームクリエイターとして史上初の快挙を成し遂げた。

さらに米『TIME』誌が2008年に実施した「読者が選ぶ世界で最も影響力のある100人」では宮本さんがトップとなり、その最終得票数は実に197万票以上にも達した。これはゲーム業界にとどまらず一般層からも宮本さんが支持され愛されている証と言える。

海外メディアやクリエイターからの評価も非常に高く、インタビューでは「子供の頃に宮本ゲームで遊んで育った」「宮本茂からゲームデザインを学んだ」といった声が多く聞かれる。

例えば、米国のゲームデザイナー達は宮本さんの作品について「ゲームにストーリーと冒険を持ち込んだパイオニア」「シンプルだが奥深いゲームプレイのお手本」と賞賛を惜しまなかった。

任天堂以外の他社タイトルにも宮本さんの影響は至る所に見られ、マリオやゼルダにインスパイアされたキャラクターやゲームシステムは数知れないほど。

こうした世界的なリスペクトを背景に、宮本さんは基調講演や受賞スピーチでゲーム開発者たちに向けて度々メッセージを発信して来た。

そこでは「ゲームは人を幸せにするためのもの」「自分の信じる遊び心を大切にしてほしい」といった宮本さんらしい言葉が語られている。

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最後に

最後に、宮本茂さんの存在そのものがゲーム業界の希望であり続けている点にも触れておきたい。

現在70歳を迎えようとしているが、宮本さんは「引退」という言葉から程遠く、常に新しいチャレンジに意欲的である。

任天堂の新プロジェクトや若手チームにも積極的に関わり、「自分もまだまだ学ぶことがある」と謙虚な姿勢でクリエイティブに携わっている。その姿は後進の模範であるだけでなく、ファンにとっても大きな励みとなっている。

宮本さんがこれまで築き上げたゲームの数々と、その裏にある哲学やエピソードは、これからも語り継がれていくことだろう。

そして私たちはきっと、宮本茂さんが生み出す次なる「遊び」を心待ちにしながら、これからもマリオやリンクたちと冒険の旅を続けていくに違いない。

世界をワクワクさせる宮本茂さんの今後の活躍にも、引き続き目が離せない。

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